【追悼】ジョルジュ・プレートル氏

〔In Memory of Georges Prêtre 〕

Georges Prêtre for blog (C) Akira KINOSHITA
【Georges Prêtre Ⓒ Akira KINOSHITA】

2017年1月4日お亡くなりになった指揮者、ジョルジュ・プレートル。
ちょうど、木之下晃の写真をジャケットにした
国内版のCDがリリースになったばかり、
東海市芸術劇場での『木之下晃展』では
プレートルのビンテージプリントを展示していた…
そんなタイミングでの訃報でした。
マエストロと写真家のご縁を感じずにはいられません。

写真でマエストロを追悼いたします。

そのCDジャケットには、マエストロの機微が伝わる写真をご提供しました。

Georges Prêtre-011113-3blogⒸAkira KINOSHITA

Georges Prêtre-011113-5blogⒸAkira KINOSHITA

Georges Prêtre-011113-2blogⒸAkira KINOSHITA
Nov.13, 2001 Tokyo
【Georges Prêtre condacts the Orchestre de Parisc Ⓒ Akira KINOSHITA 】


木之下のポートレイトシリーズ『石を聞く肖像』。
「この石を見て感じたことをカメラの前で表現してください」と
卵型の石を差し出すと、
マエストロは「野球のピッチャーになりたかった」とおっしゃり、
こんなポーズを取ってくださいました。

Georges Prêtre-stone-(C)Akira KINOSHITA

なんとチャーミングな表情!
楽しそうにフィルムに収まってくださったマエストロ…
ありがとうございました。

ご冥福をお祈りします。

木之下晃アーカイヴス



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【追悼】中村紘子氏

中村紘子さん、やすらかに…
Hiroko Nakamura-2(C)Akira KINOSHITA
【Hiroko Nakamura Ⓒ Akira KINOSHITA Sep,27 2009 Minato Mirai Hall, Yokohama】

木之下晃は、雑誌『ショパン』誌上で、「ピアニストの部屋」という連載を
正味10年近く担当しておりました。
先日お亡くなりになった中村紘子さんのお宅にも取材に伺い、
1988年1月号にご登場いただいておりました。
28年も前の取材にはなりますが、
中村紘子さんの素顔も垣間見られる記事になっておりますので、
故人を追悼して、ここに掲載いたします。

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【ショパン1988年1月号掲載 「ピアニストの部屋」】

Hiroko Nakamura-1(C)Akira KINOSHITA

中村紘子さんのご主人は、ご存じ、芥川賞作家の庄司薫さん。ご結婚は1974年のこと。現在のご夫妻のお住まいは、15年前から庄司さんが独りで使っていたところへ、13年前に紘子さんがピアノとネコをつれて、移ってきた。お部屋の眺望は抜群。東に東京湾、西に富士山が望め、近くにある東京タワーは夜になれば1年中クリスマスツリーみたいに電飾が窓の外を飾っている。
 白い天井、白い壁。あか抜けたリビング・ルームは25畳の広さ。応接セットが2か所にセットされ、その間に置かれたスタインウェイのC型が小さく見える。お部屋のあちこちには美しい生花が彩りを添え、紘子さんの部屋らしい華やかさに包まれている。
 彼女のピアノの部屋は、その隣の16畳の部屋。実は防音のためにその部屋の中に、カプセルみたいにもう一つの部屋が作ってあり、2重扉を閉めるとまったく外に音が出ないように工夫されている。床をはがして、コンクリートを打ち直して作ったそうだ。この防音工事はなんと宇宙工学の進歩の恩恵を受けている。ロケットが飛び立つ時の、あのものすごい爆音がパイロットの耳を聞こえなくしてしまうことから、その方面の研究が進んで、軽くて薄い遮断力のいい防音材が生まれて、おかげで音楽家たちも大助かりとのこと。この部屋にもC型のスタインウェイが入っている。彼女のマンションのエレベーターにはどうしてもフルコンのピアノが入らないので、これでガマンをして、猛烈に勉強されている。
 紘子さんの忙しさはものすごい。年間3か月は海外。日本にいる時も月の半分は演奏旅行。それでも3泊4日以上の旅は絶対にしないように心掛け、家に飛んで帰る。だから地方では、ホテルとホールの裏口しか知らないと笑っている。
旅に出る時には、駅弁が大好きで必ず幕の内弁当を買い込んで乗るとか。でも美味しい駅弁には一度も出会ったことがないそうだ。地方へ行くとデパートの食堂に出掛けて、見本がいっぱい並んでいるのを呆然と眺めるのも好き。
 彼女の料理上手は有名で、絵も文章もものすごく上手。
 気晴らしは車(ベンツ380、中古で買った)に乗ること。スーパーへの買い物も車で行って、野菜の顔を眺めているうちにその日の献立が決まる。
 紘子さんのすてきなステージ衣装は、2人のデザイナーが作っている。君島一郎さんとは20数年のお付き合い。今一人は、松田聖子さんの衣装も手掛ける小峰リリーさん。春に4~5着、秋に3~4着作って、今は、15着が衣装ケースに入っている。
 ここでショパンの読者に耳寄りな話を一つ。もし読者で希望者がいたら、紘子さんが使わなくなった衣装をプレゼントしてくださるそうです。これはステージだけでなく、結婚式の披露宴などに着てもバッチリ決めることができますヨ。編集部まで連絡を入れてください。もちろん数には制限がありますから、念のため。

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なんと、取材中に衣装のプレゼントの申し出があったとは!!
この時、紘子さんから衣装を贈られた方は、きっと今も大切にされていることでしょうね。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

木之下晃アーカイヴス






【追悼】ピエール・ブーレーズ氏

〔In Memory of Pierre Boulez〕

作曲家であり、指揮者であるピエール・ブーレーズ氏が
2016年1月5日逝去されました。享年90。

木之下晃アーカイヴスでは、木之下晃が撮影しました
マエストロの写真で氏を追悼いたします。
在りし日のブーレーズ氏の指揮姿を、どうぞご覧ください。

Pierre Boulez1(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<1974年9月2日撮影 東京文化会館 ニューヨーク・フィルハーモニック>


Pierre Boulez2(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<1995年5月19日撮影 サントリーホール ロンドン交響楽団>


Pierre Boulez3(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<2002年10月23日撮影 Bunkamuraオーチャード・ホール ロンドン交響楽団>

Pierre Boulez4(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<2002年10月23日撮影 Bunkamuraオーチャード・ホール ロンドン交響楽団>

Pierre Boulez5(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<2002年10月23日撮影 Bunkamuraオーチャード・ホール ロンドン交響楽団>


いかがでしょうか?
オケを見つめる眼差しが、鋭く印象的です。
後日、文章を加筆予定です。
また、ご覧いただけますと幸いです。

木之下晃アーカイヴス

【追悼】クルト・マズア氏(後篇)

〔In memory of Kurt Masur 2〕

Kurt Masur-bk4(C)Akira KINOSHITA
< Kurt Masur : 1983年10月27日撮影 昭和女子大学人見記念講堂>

前回に続き、逝去されたクルト・マズア氏を追悼します。
前回は、氏の堂々たる指揮姿の写真を掲載しましたが、
今回はプライベートショットも交えて、木之下晃が遺した文章共に掲載します。

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(前篇より続く)
 私は巨匠が75年にライプティヒ・ゲヴァンドハウス管弦楽団を率いて来日した折に、始めてカメラを向けた。以来、来日の都度撮影を続け、幾度か自宅にも招かれて家族と共に巨匠を写している。

 マズアを語る時、重要な節目の一つに、夫人であるヴィオラ奏者で歌手の櫻井偕子さんとの出会いがある。彼女は立教大学に進学するも学生運動の波に揉まれ、72年、4年生で中退。新天地を求め、母の友人を頼って片道切符で単身ブラジルに渡り、リオデジャネイロのブラジル交響楽団でヴィオラを弾いていた。それから2年後の74年4月のこと。巨匠がそのオーケストラに客演した折のリハーサルの休憩時間に、偕子さんが「ドイツへ行きたいと思っているのですが、スカラシップはどうしたらもらえますか?」と巨匠の楽屋へ聞きに行った。彼女を見た巨匠は、その時、偕子さんに一目惚れをした。

Kurt Masur-bk2(C)Akira KINOSHITA
<1983年11月4日撮影 東京文化会館楽屋 偕子夫人と共に>

 巨匠はその2年前に2度目の結婚をした前妻を交通事故で亡くし、もう二度と結婚しないと心に決めていたものの、その演奏会の後で偕子さんをディナーに誘い「先日の話だけど、私は東側から来ているので西側のスカラシップの手伝いはできないが、ライプティヒにも素晴らしい音楽学校があるから、そこなら手助けできますよ」とワインを飲みながら「ライプティヒに来る気はありませんか?」と遠回しにプロポーズした。しかし、突然な申し出は彼女にその真意が伝わらなかった。そこで巨匠は帰国を1日延ばて、再度求婚。その後手紙のやりとりがあって約1年後の75年7月15日、ライプティヒのザイフェン教会で結婚式を挙げた。偕子さんは24歳だった。
 
Kurt Masur-bk3(C)Akira KINOSHITA
<1985年11月25日都内にて撮影 マズアファミリー>

 二人の間にはデイビッド・謙君という子息がいる。(前妻との間には4人。)彼はコロンビア大学を卒業して、ドイツのデトモルトでバリトン歌手として学んだ。実は指揮の才能もあって、巨匠は「両方やっても相当なレベルまでいける」と彼の将来を信じている。

Kurt Masur-bk1(C)Akira KINOSHITA
<2001年10月18日撮影 マズアファミリー サントリーホール楽屋にて>

 マズアは、独・英・伊・露・仏語を話し、寝言はドイツ語。夢はオールカラーで見るという。文学青年だったそうで、フランス文学、ロシア文学に傾倒、特にロマン・ロラン、ビクトル・ユゴー、ドストエフスキー、プーシキンを愛読する。思い出の映画は15~16歳頃に見た、ロベルト・シューマンの人生を描いたマティアス・ヴィックマン主演の「トロイ・メライ」で、そこに出演していた女優のヒルデ・クラールは多感な青年の心に焼き付いて、永遠のファンになったという。嫌いな食べ物はドジョウ。夫人が浅草の駒形どぜうへ柳川鍋を食べに連れて行ったら「ギャッ」と叫んで店の外へ飛び出してしまったとのことだ。
 2006年12月に偕子夫人ゆかりの立教大学は巨匠に名誉博士号を授与した。(text by Akira KINOSHITA)

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木之下晃がこの文章を書いたのがいつなのかが、明確にはわからないのですが、
現在ケン・マズア氏は、指揮者として各国のオケからの客演をこなしつつ、
今年1月にはアシスタントコンダクターを務めるボストン交響楽団でimpressiveなデビューを飾ったと、
ご自身のホームページに記述がありますね。
1985年に撮影した写真では巨匠の膝にチョコンと坐っていたケン君が世界に羽ばたいていることを
巨匠と共に木之下も喜んでいることでしょう。

最後に、木之下のライフワークでもあったポートレイトシリーズ『石を聞く肖像』からの1枚を。

Kurt Masur-ishi-blog(C)Akira KINOSHITA

頭の頂きが薄くなってきたので、「髪がはえますように」と願ってのポーズとのこと!
素晴らしいユーモアをお持ちの方でもいらっしゃいました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

木之下晃アーカイヴス






【追悼】クルト・マズア氏(前篇)

〔In memory of Kurt Masur〕

クルト・マズア(C)Akira KINOSHITA
<1987年5月10日撮影 神奈川県民ホール>

指揮者のクルト・マズア氏が12月19日に逝去されました。享年88。
木之下晃は、巨匠の自宅に招かれるなど、氏と交流を深めながら
撮影やインタビューを続けておりました。
木之下晃アーカイヴスは、木之下が遺した写真と文章で、巨匠を追悼いたします。
(前後篇に分けて掲載いたします。)

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 1989年11月20日、私はライプティヒのカール・マルクス広場を埋め尽くす三十万人の大集会の渦の中にいた。民主化を求める東ドイツ市民の声は、日に日に昂揚。その興奮する市民の声に対して、西側の状況を知るクルト・マズアは民主化を支持していた。市民からは民主化のリーダーとして信頼されており、話を聞いた当時の東ドイツの文化大臣も「我々はクルト・マズアを大統領に推している」と語っていた。巨匠は市民と体制の両側から支持されていたのである。
 翌、12月。来日した巨匠にサントリーホールの楽屋でその話を伝えると「私は絶対政治家にはならない」と断言。巨匠は“音楽”を選択したことによって、ニューヨーク・フィル、ロンドン・フィル、フランス国立管弦楽団と世界三大都市の冠たるオーケストラを率いたのである。後日その話題に触れると「大統領になんかなっていたら、とっくの昔に死んでいたよ」と笑っていた。

クルト・マズア 950507(C)Akira KINOSHITA
<1995年5月7日撮影 Bunkamuraオーチャードホール>

 クルト・マズアは、当時ドイツ領(現ポーランド)のシェレージエン地方ブリーグという所で生まれた。父親はシーメンスの電気技師で、時代の最先端の仕事をしていた。家は小さな電気店で母親が切り盛りしていたという。幼児の頃から音楽の才能が芽生え、それを見出した叔母の薦めで5歳からピアノを習い始め、ギムナジウムが終わると、16歳でプレスラウの音楽学校へ通った。
戦争が激しくなり、1944年の12月「敵が来る」と云うので、町の全員が逃げる中、まず母親の故郷チューリーゲン地方クロースターマンスフェルト町(アイゼンナッハの近く)へ避難、その後、父の職場「シーメンス社」があるハルツ地方オーシャスレーベンに移った。17歳で徴兵され、陸軍に編入、オランダの前線に送られた。その時、一緒に出兵した兵士の中には17歳の兵士が134人いたそうだが、そのほとんどが戦死、生き残ったのは、たったの25人だったという。巨匠は運よくその中にいた。

クルト・マズア 020625(C)Akira KINOSHITA
<2002年6月25日撮影 サントリーホール>

 その後は捕虜収容所に入れられるも、同じ収容所で看護師をしていた長姉が偽のパスポートを作ってくれて逃亡、父親が働いていたオーシャスレーベンまで歩いて辿り着いた。それから間もなくして敗戦。戦争が終わると、18歳でライプティヒ音楽院に入学、音楽家としてのキャリアを歩きだした。 ------(text by Akira KINOSHITA)

クルト・マズア 040420(C)Akira KINOSHITA
<2004年4月20日撮影 サントリーホール>

人道主義者としての功績も讃えられるクルト・マズア氏。
彼の生き方は、このような戦争体験に裏付けされるのですね。
近日中に後篇を掲載予定です。
引き続きお読みいただけると嬉しく思います。

木之下晃アーカイヴス




プロフィール

木之下晃

Author:木之下晃
音楽写真家木之下晃のブログです。
展覧会や出版のお知らせ、
撮影エピソードなどを紹介していきます。

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