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【追悼】小澤征爾氏


Seiji Ozawa-59(C) Kinoshita Akira Archives

とうとう、この知らせが届いてしまいました。
木之下晃が最も多く撮影した音楽家のお一人、
小澤征爾さんが旅立たれました。
心からご冥福をお祈りいたします。

Seiji Ozawa6-197907 (C) Kinoshita Akira Archives

Seiji Ozawa-21 (C) Kinoshita Akira Archives

木之下とは一つ違いの小澤さん。
40代~50代は、400回以上、撮影を重ねていました。
国内はもちろん、アメリカ、ベルリン、パリ、中国……
多くの演奏に同行し、時には小澤さんの運転で移動することも。
感情が豊かで、臆せず世界へ打って出る姿勢に惹かれ、
夢中でカメラを向けていたのだと想像します。
オンの写真、オフの写真。
皆さまと写真で故人を悼んでいけたら幸いです。

Seiji Ozawa-64 (C)Kinoshita Akira Archives
今でこそ、 テレビなどの無人カメラが置かれている
このポジションでの撮影を許してくれていました。
なんという、度量の大きさでしょう。
<1980年5月5日 日比谷公会堂>

Seiji Ozawa-61 (C)Kinoshita Akira Archives
この豊かな表情。
被写体としても、どれだけ魅力的だったことか。
<1975年9月1日撮影>

Seiji Ozawa-72 (C) Kinoshita Akira Archives
ボストン・レッドソックスの大ファンでいらっしゃいましたが、
ご本人もプレー!!
<1975年6月7日 サンフランシスコ響広島公演の休演日に>

Seiji Ozawa-76 (C) Kinoshita Akira Archives
テニスも♪
<1979年8月 タングルウッド>

Seiji Ozawa-69 (C) Kinoshita Akira Archives
ベルリンでのオフショット。
ツアーメンバーと、くつろぎのひと時。

夢中でカメラを向ける中、ひとつの形になったのが、
写真集『小澤征爾の世界』(1981年講談社刊)
小澤征爾の世界
収録写真を改めて見ると、全身で音楽を紡ぐ若き日の小澤さんは、
大変に魅力的です。
2015年にケネディ・センター名誉賞を受賞されたときは、
大統領列席のもと全米中継された授賞式で、この写真集の中から、
何点も写真をご使用いただきました。
「この本の中の躍動感は、ほかの写真にはない」と式典の担当者から言っていただき、
私共も嬉しく思いました。

木之下にとっても大きな出来事になったのは、
この写真が切手になったこと。
それまで、切手の原案に写真が採用されることはなく、
写真が切手になった第一号と聞いています。
Seiji Ozawa stamp

武満徹さんの楽曲を、世界へ向けて演奏したのも、
小澤さんの大きな功績の一つではないでしょうか。
Toru Takemitsu-113(C)Kisnoshita Akira Archives
<1975年9月8日 『カトレーン』リハーサル 東京文化会館>
Seiji Ozawa-30 (C) Kinoshita Akira Archives
<1985年2月6日 新日本フィルヨーロッパ公演『ノヴェンバー・ステップス』
 ロンドン・バービカンホール>

文化大革命が終わった直後、クラシック音楽が禁止されていた中国を
ボストン響が訪問。
瀋陽で生まれた小澤さんは、万感の思いと共に、中国に降り立ちました。
Seiji Ozawa-65 (C) Kinoshita Akira Archives
<旧小沢邸前で、ご母堂さくらさん、弟幹雄さんと>
Seiji Ozawa-80sample 790319(C)Kinoshita Akira Archives
大歓迎の様子が伝わります。
Seiji Ozawa-77sample 790319(C)Kinoshita Akira Archives
中国の皆さんに、どれだけの興奮を届けたのでしょうか。

ボストン交響楽団では、追悼演奏が行われました。
スクリーンに映る在りし日の小澤さんの写真は、木之下が撮影したもの。
無題
https://www.youtube.com/watch?v=BgpLzmdtcwI

同じくボストン交響楽団ホームページ内の追悼記事にも、
木之下の写真が使用されておりました。
お互いに若く、志高く、エネルギッシュに過ごしていたからこその、写真。
木之下も天国からマエストロをねぎらっているような気がいたします。
https://www.bso.org/stories/a-tribute-to-seiji-ozawa

被写体が輝くと写真も輝く――
木之下はよく言っていましたが、
まさに、まさに、それを体現してくれたのが、小澤征爾さんでした。
どうか、安らかにお眠りください。


木之下晃アーカイヴス

2024年2月23日(金・祝)〜2024年3月3日(日)
やまと芸術文化ホール=シリウス ギャラリーにて
『音楽写真家 木之下晃写真展』が行われます。
小澤征爾さんを悼む展示も考えております。
ぜひとも、ご覧いただけたら嬉しく思います。
https://yamato-bunka.jp/hall/2023/009298.html











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【追悼】ジョルジュ・プレートル氏

〔In Memory of Georges Prêtre 〕

Georges Prêtre for blog (C) Akira KINOSHITA
【Georges Prêtre Ⓒ Akira KINOSHITA】

2017年1月4日お亡くなりになった指揮者、ジョルジュ・プレートル。
ちょうど、木之下晃の写真をジャケットにした
国内版のCDがリリースになったばかり、
東海市芸術劇場での『木之下晃展』では
プレートルのビンテージプリントを展示していた…
そんなタイミングでの訃報でした。
マエストロと写真家のご縁を感じずにはいられません。

写真でマエストロを追悼いたします。

そのCDジャケットには、マエストロの機微が伝わる写真をご提供しました。

Georges Prêtre-011113-3blogⒸAkira KINOSHITA

Georges Prêtre-011113-5blogⒸAkira KINOSHITA

Georges Prêtre-011113-2blogⒸAkira KINOSHITA
Nov.13, 2001 Tokyo
【Georges Prêtre condacts the Orchestre de Parisc Ⓒ Akira KINOSHITA 】


木之下のポートレイトシリーズ『石を聞く肖像』。
「この石を見て感じたことをカメラの前で表現してください」と
卵型の石を差し出すと、
マエストロは「野球のピッチャーになりたかった」とおっしゃり、
こんなポーズを取ってくださいました。

Georges Prêtre-stone-(C)Akira KINOSHITA

なんとチャーミングな表情!
楽しそうにフィルムに収まってくださったマエストロ…
ありがとうございました。

ご冥福をお祈りします。

木之下晃アーカイヴス



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よろしければコチラからも↓

  








【追悼】中村紘子氏

中村紘子さん、やすらかに…
Hiroko Nakamura-2(C)Akira KINOSHITA
【Hiroko Nakamura Ⓒ Akira KINOSHITA Sep,27 2009 Minato Mirai Hall, Yokohama】

木之下晃は、雑誌『ショパン』誌上で、「ピアニストの部屋」という連載を
正味10年近く担当しておりました。
先日お亡くなりになった中村紘子さんのお宅にも取材に伺い、
1988年1月号にご登場いただいておりました。
28年も前の取材にはなりますが、
中村紘子さんの素顔も垣間見られる記事になっておりますので、
故人を追悼して、ここに掲載いたします。

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【ショパン1988年1月号掲載 「ピアニストの部屋」】

Hiroko Nakamura-1(C)Akira KINOSHITA

中村紘子さんのご主人は、ご存じ、芥川賞作家の庄司薫さん。ご結婚は1974年のこと。現在のご夫妻のお住まいは、15年前から庄司さんが独りで使っていたところへ、13年前に紘子さんがピアノとネコをつれて、移ってきた。お部屋の眺望は抜群。東に東京湾、西に富士山が望め、近くにある東京タワーは夜になれば1年中クリスマスツリーみたいに電飾が窓の外を飾っている。
 白い天井、白い壁。あか抜けたリビング・ルームは25畳の広さ。応接セットが2か所にセットされ、その間に置かれたスタインウェイのC型が小さく見える。お部屋のあちこちには美しい生花が彩りを添え、紘子さんの部屋らしい華やかさに包まれている。
 彼女のピアノの部屋は、その隣の16畳の部屋。実は防音のためにその部屋の中に、カプセルみたいにもう一つの部屋が作ってあり、2重扉を閉めるとまったく外に音が出ないように工夫されている。床をはがして、コンクリートを打ち直して作ったそうだ。この防音工事はなんと宇宙工学の進歩の恩恵を受けている。ロケットが飛び立つ時の、あのものすごい爆音がパイロットの耳を聞こえなくしてしまうことから、その方面の研究が進んで、軽くて薄い遮断力のいい防音材が生まれて、おかげで音楽家たちも大助かりとのこと。この部屋にもC型のスタインウェイが入っている。彼女のマンションのエレベーターにはどうしてもフルコンのピアノが入らないので、これでガマンをして、猛烈に勉強されている。
 紘子さんの忙しさはものすごい。年間3か月は海外。日本にいる時も月の半分は演奏旅行。それでも3泊4日以上の旅は絶対にしないように心掛け、家に飛んで帰る。だから地方では、ホテルとホールの裏口しか知らないと笑っている。
旅に出る時には、駅弁が大好きで必ず幕の内弁当を買い込んで乗るとか。でも美味しい駅弁には一度も出会ったことがないそうだ。地方へ行くとデパートの食堂に出掛けて、見本がいっぱい並んでいるのを呆然と眺めるのも好き。
 彼女の料理上手は有名で、絵も文章もものすごく上手。
 気晴らしは車(ベンツ380、中古で買った)に乗ること。スーパーへの買い物も車で行って、野菜の顔を眺めているうちにその日の献立が決まる。
 紘子さんのすてきなステージ衣装は、2人のデザイナーが作っている。君島一郎さんとは20数年のお付き合い。今一人は、松田聖子さんの衣装も手掛ける小峰リリーさん。春に4~5着、秋に3~4着作って、今は、15着が衣装ケースに入っている。
 ここでショパンの読者に耳寄りな話を一つ。もし読者で希望者がいたら、紘子さんが使わなくなった衣装をプレゼントしてくださるそうです。これはステージだけでなく、結婚式の披露宴などに着てもバッチリ決めることができますヨ。編集部まで連絡を入れてください。もちろん数には制限がありますから、念のため。

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なんと、取材中に衣装のプレゼントの申し出があったとは!!
この時、紘子さんから衣装を贈られた方は、きっと今も大切にされていることでしょうね。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

木之下晃アーカイヴス






【追悼】ピエール・ブーレーズ氏

〔In Memory of Pierre Boulez〕

作曲家であり、指揮者であるピエール・ブーレーズ氏が
2016年1月5日逝去されました。享年90。

木之下晃アーカイヴスでは、木之下晃が撮影しました
マエストロの写真で氏を追悼いたします。
在りし日のブーレーズ氏の指揮姿を、どうぞご覧ください。

Pierre Boulez1(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<1974年9月2日撮影 東京文化会館 ニューヨーク・フィルハーモニック>


Pierre Boulez2(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<1995年5月19日撮影 サントリーホール ロンドン交響楽団>


Pierre Boulez3(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<2002年10月23日撮影 Bunkamuraオーチャード・ホール ロンドン交響楽団>

Pierre Boulez4(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<2002年10月23日撮影 Bunkamuraオーチャード・ホール ロンドン交響楽団>

Pierre Boulez5(C)Akira KINOSHITA
Pierre Boulez photo by Akira KINOSHITA
<2002年10月23日撮影 Bunkamuraオーチャード・ホール ロンドン交響楽団>


いかがでしょうか?
オケを見つめる眼差しが、鋭く印象的です。
後日、文章を加筆予定です。
また、ご覧いただけますと幸いです。

木之下晃アーカイヴス

【追悼】クルト・マズア氏(後篇)

〔In memory of Kurt Masur 2〕

Kurt Masur-bk4(C)Akira KINOSHITA
< Kurt Masur : 1983年10月27日撮影 昭和女子大学人見記念講堂>

前回に続き、逝去されたクルト・マズア氏を追悼します。
前回は、氏の堂々たる指揮姿の写真を掲載しましたが、
今回はプライベートショットも交えて、木之下晃が遺した文章共に掲載します。

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(前篇より続く)
 私は巨匠が75年にライプティヒ・ゲヴァンドハウス管弦楽団を率いて来日した折に、始めてカメラを向けた。以来、来日の都度撮影を続け、幾度か自宅にも招かれて家族と共に巨匠を写している。

 マズアを語る時、重要な節目の一つに、夫人であるヴィオラ奏者で歌手の櫻井偕子さんとの出会いがある。彼女は立教大学に進学するも学生運動の波に揉まれ、72年、4年生で中退。新天地を求め、母の友人を頼って片道切符で単身ブラジルに渡り、リオデジャネイロのブラジル交響楽団でヴィオラを弾いていた。それから2年後の74年4月のこと。巨匠がそのオーケストラに客演した折のリハーサルの休憩時間に、偕子さんが「ドイツへ行きたいと思っているのですが、スカラシップはどうしたらもらえますか?」と巨匠の楽屋へ聞きに行った。彼女を見た巨匠は、その時、偕子さんに一目惚れをした。

Kurt Masur-bk2(C)Akira KINOSHITA
<1983年11月4日撮影 東京文化会館楽屋 偕子夫人と共に>

 巨匠はその2年前に2度目の結婚をした前妻を交通事故で亡くし、もう二度と結婚しないと心に決めていたものの、その演奏会の後で偕子さんをディナーに誘い「先日の話だけど、私は東側から来ているので西側のスカラシップの手伝いはできないが、ライプティヒにも素晴らしい音楽学校があるから、そこなら手助けできますよ」とワインを飲みながら「ライプティヒに来る気はありませんか?」と遠回しにプロポーズした。しかし、突然な申し出は彼女にその真意が伝わらなかった。そこで巨匠は帰国を1日延ばて、再度求婚。その後手紙のやりとりがあって約1年後の75年7月15日、ライプティヒのザイフェン教会で結婚式を挙げた。偕子さんは24歳だった。
 
Kurt Masur-bk3(C)Akira KINOSHITA
<1985年11月25日都内にて撮影 マズアファミリー>

 二人の間にはデイビッド・謙君という子息がいる。(前妻との間には4人。)彼はコロンビア大学を卒業して、ドイツのデトモルトでバリトン歌手として学んだ。実は指揮の才能もあって、巨匠は「両方やっても相当なレベルまでいける」と彼の将来を信じている。

Kurt Masur-bk1(C)Akira KINOSHITA
<2001年10月18日撮影 マズアファミリー サントリーホール楽屋にて>

 マズアは、独・英・伊・露・仏語を話し、寝言はドイツ語。夢はオールカラーで見るという。文学青年だったそうで、フランス文学、ロシア文学に傾倒、特にロマン・ロラン、ビクトル・ユゴー、ドストエフスキー、プーシキンを愛読する。思い出の映画は15~16歳頃に見た、ロベルト・シューマンの人生を描いたマティアス・ヴィックマン主演の「トロイ・メライ」で、そこに出演していた女優のヒルデ・クラールは多感な青年の心に焼き付いて、永遠のファンになったという。嫌いな食べ物はドジョウ。夫人が浅草の駒形どぜうへ柳川鍋を食べに連れて行ったら「ギャッ」と叫んで店の外へ飛び出してしまったとのことだ。
 2006年12月に偕子夫人ゆかりの立教大学は巨匠に名誉博士号を授与した。(text by Akira KINOSHITA)

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木之下晃がこの文章を書いたのがいつなのかが、明確にはわからないのですが、
現在ケン・マズア氏は、指揮者として各国のオケからの客演をこなしつつ、
今年1月にはアシスタントコンダクターを務めるボストン交響楽団でimpressiveなデビューを飾ったと、
ご自身のホームページに記述がありますね。
1985年に撮影した写真では巨匠の膝にチョコンと坐っていたケン君が世界に羽ばたいていることを
巨匠と共に木之下も喜んでいることでしょう。

最後に、木之下のライフワークでもあったポートレイトシリーズ『石を聞く肖像』からの1枚を。

Kurt Masur-ishi-blog(C)Akira KINOSHITA

頭の頂きが薄くなってきたので、「髪がはえますように」と願ってのポーズとのこと!
素晴らしいユーモアをお持ちの方でもいらっしゃいました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

木之下晃アーカイヴス






プロフィール

木之下晃

Author:木之下晃
音楽写真家木之下晃のブログです。
展覧会や出版のお知らせ、
撮影エピソードなどを紹介していきます。

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