音楽の遺蹤~トゥルク・シベリウス博物館

音楽の遺蹤~トゥルク・シベリウス博物館
〓フィンランド・トゥルク〓
(『音楽の友』2008年2月号より  写真・文: 木之下 晃)

ボルグ家の墓 akira kinoshita
<ボルグ家の墓>

 シベリウスをより深く知るために、
トゥルク市にある「シベリウス博物館」を訪ねてみることをおすすめする。
 シベリウスの父方の祖母は、このトゥルクに生まれたスウェーデン人で、
彼女の父親マティアス・オールベイは医師だったが、
チェロとヴァイオリンの名手でトゥルク音楽協会のメンバーとして演奏していた。
また、シベリウスの母のマリア・シャルロッタは、1841年にトゥルク市で生まれた。
父親のガブリエル・ボルグもトゥルク出身のスウェーデン人神父であった。
このようにシベリウスにはスウェーデン人の血が流れていて、
トゥルクはシベリウスのルーツのひとつである。

SIBELIUS MUSEUM by Akira KINOSHITA
<トゥルク・シベリウス博物館>

 トゥルクはヘルシンキから北北西へ165キロのところにあるフィンランド最古の街。
1812年ヘルシンキに移るまでの首都だったところで、その歴史的背景を少し説明したい。
 1155年、スウェーデンはイギリス出身のヘンリク司教率いる
第1回十字軍をフィンランドに派遣して領土とした。
スウェーデン国王エーリク9世が“オーボ”と名付けて首都としたのが現在のトゥルクである。
1280年頃に、現存するトゥルク城が建てられ、スウェーデン国王の居城とした。
16世紀にグスタフ1世・バーサ国王は、子息のヨハン3世を大公に任命。
ポーランドからカタリーナ・ヤゲローニカ王女を大公妃に迎え繁栄を誇った。
本誌1987年9月号で紹介したスウェーデンのドロットニングホルム宮殿は、
ヨハン3世が王位を継承した時に、この王妃のために建てたものである。
そしてグスタフ3世時代の1640年にトゥルク大学が創設され、
現在も大学を中心とした文化都市となっているようにスウェーデン色が強いところである。
 
 またトゥルクは宗教的にも重要な街である。
フィンランド人はヘンリ司教をフィンランド使徒と崇め、
以来カトリック教が300年余に渡って信仰の核となっている。
現在でも国民の92%以上が福音ルーテル教会に属し、8の大司教区が置かれ、
選挙で選出された司教は大統領によって任命される。
その中で伝統的にトゥルクの司教が、
全教区を統括する大司教に就任するシステムをとっている。
シベリウスの妻の父ボルグは、このトゥルク出身の神父で、
教団からハメーンリンナに派遣されていたのである。
ちなみに指揮者の故渡邉暁雄氏の父親も福音ルーテル教会の神父で、
フィンランドで修業している時に、
ヘルシンキ音楽院の学生で歌手のシーリさんと出会って結婚したのである。
シベリウスを知る時、この宗教との係わりは記憶されておくといい。

 またトゥルクには、シベリウスの父の兄であるペール・シベリウスが住んでいた。
彼は植物の種を扱う商人だったが、音楽的素養があって、ヴァイオリンを弾き、
作曲も行い、天文学にも詳しい文化人で、シベリウスはこの伯父に連れられて、
音楽会に通い、音楽への強い影響を受けたという。
 
 SIBELIUS MUSEUM 2 by Akira KINOSHITA
<シベリウスが愛用した帽子とステッキ(シベリウス博物館蔵)>

  これらの繋がりから、1968年3月に「シベリウス博物館」がトゥルクに誕生した。
この博物館はオットー・アンダーソン氏の個人コレクションを中心に、
オーボ・アカデミーの音楽コレクションをまとめて設立。
シベリウスの自筆楽譜をはじめ、書簡や各種資料に合わせて、古楽器が収集されている。
その収集資料の中で、もっとも貴重なものは、第二次大戦の折、
ドイツ軍の爆撃で焼けた「交響曲第2番」自筆楽譜である。
この焼けてボロボロになった楽譜はイタリアで日本和紙を使って、
一枚一枚裏打ちされて修復。国の文化財として保護されている。

シベリウス焼けた楽譜 by
<交響曲第2番の焼けた楽譜(シベリウス博物館蔵>


次回は、音楽の遺蹤からシベリウス・ロヴィーサの遺蹤をご紹介します。


■お知らせ■
このように写真家木之下晃はシベリウスの足跡を丁寧に辿って
撮影をしておりました。
そんな木之下が残したシベリウスゆかりの写真をご覧いただきながら
福士恭子さんのピアノでシベリウスを愉しんで頂く催しが
富士河口湖音楽祭2015のプログラムの一つとして行われます。

------------------------------------------------------
木之下晃が辿ったシベリウスの足跡 〜フォト・トーク& ピアノ〜
日時:2015年8月20日 @ 4:00 PM – 5:45 PM
会場:河口湖円形ホール
〒401-0304
山梨県南都留郡富士河口湖町河口3030
料金:一般1500円(1300円)高校生以下600円(500円)
ドリンク・お菓子付

http://ongakusai.stellartheater.jp/2015/
------------------------------------------------------

毎年、富士河口湖音楽祭には撮影に出かけ、
フォトトークも繰り拡げていた木之下晃。
今年は、本人亡き後ではありますが、ピアノの演奏と共に
写真からシベリウスを感じていただくことで
楽曲への理解も深めて頂けるよう準備を進めております。
湖のほとりにある、こじんまりとした河口湖円形ホール…
お庭からは富士山も見えます。
どうぞ遊びに来てください♪

木之下晃アーカイヴス
スポンサーサイト

音楽の遺蹤~ジャン・シベリウス生家

音楽の遺蹤~ジャン・シベリウス生家
〓フィンランド・ハメーンリンナ〓
(『音楽の友』2008年1月号より  写真・文: 木之下 晃)

シベリウス44 by akira kinoshita
<シベリウスが生まれた部屋>

 シベリウスは1865年12月8日午前零時半に、
ヘルシンキから北北西へ約100キロのところにあるハメーンリンナに生まれ、
ヨハン・クリスチャン・ユルウスとスウェーデン風に命名。ヤンネと愛称された。
 ハメーンリンナは、13世紀末にスウェーデン人が建てた
フィンランドで2番目に古い城のある中都市で、ハメ地方の城(リンナ)が地名の由来となった。
当時はロシア領の自治大公国で、ロシア軍が駐屯する軍都であった。
 父親のクリスチャン・グスタフ・シベリウスは博士号を持つ外科医で、軍医を務めていた。
シベリウス家の先祖は、ロヴィーサで商売をしつつ、
市会議員を務めていたスウェーデン系のブルジョワ階級で、日常会話はスウェーデン語であった。
フィンランドは19世紀初頭までスウェーデン領だったことから、
支配層のインテリ階級はスウェーデン語を話した。フィン語は労働階級の言葉であった。
現在もフィンランドではフィン語とスウェーデン語が公用語となっている。

シベリウス18 by akira kinoshita
<フィンランド・ハメーンリンナにあるシベリウスの生家>

 父は医師としてロヴィーサとタンペレで働いた後、40歳の1861年にハメーンリンナに移ってきた。
そこで美人3姉妹として街の評判になっていた牧師の末娘で、
20歳年下のマリア・シャールロッタ・ボイルと恋仲になり、翌62年に結婚した。
しかし、グスタフは1868年夏、患者から伝染したチフスで急逝。
その時、ヤンネは2歳半。姉のリンダ・マリアが4歳で母のお腹には弟が身籠られていた。
一家は破産宣告され、母は実家に戻ったが、牧師の祖父はすでに亡くなっていたため、
親戚などの援助を受けて生計をたてた。
父方のロヴィーサの親戚には、外国航路の船長をしていた伯父のヨハンがいた。
彼は外国の影響を受けて、名前をフランス風にジャンと綴っていた。
シベリウスは後年、この伯父への憧れから、自らも伯父と同じようにジャンと名乗っていた。

シベリウス45 by akira kinoshita
<姉弟がトリオを愉しんだ様子を復元。写真はロヴィーサで撮影されたもの>

 シベリウスの家系には音楽的要素が流れ、
父はリュートを奏で、歌を得意とし、母はピアノを弾いた。
トゥルクで商人をしていた伯父はヴァイオリンが上手で、作曲もできた。
また母の実家にはピアノがあって、牧師の祖父はヴァイオリンを弾き、
教師をしていた伯母はピアノの名手であった。
シベリウスは5歳の頃、この伯母からピアノを習い、9歳から本格的なレッスンを受けたが、
指の訓練よりも即興演奏に興味を示したという。
 7歳でスウェーデン語系の学校に入学したが、落ちこぼれ、
10歳の時にハメーンリンナに新設された「フィンランド・ノルマン学校」に移った。
この学校は、当時、独立運動のナショナリズムが勃興、フィン語の教師が必要となり、
その育成を目的に創設されたのであった。
しかし、シベリウスはスウェーデン語で育ったため、生涯フィン語は不得手であった。
シベリウス姉弟は貧しい家庭にあっても、祖母と母の努力によって、音楽の才能が磨かれ、
姉リンダ・マリアはピアノ、弟のクリスチャンはチェロの名手であった。
しかし弟は、父と同じ医学の道に進み、精神科医となり、後年大学教授になった。
シベリウス自身は14歳の時から、
ハメーンリンナ連隊の軍楽隊長グスタフ・レワンデルからヴァイオリンを習い、
学校のオーケストラのメンバーとなり、家庭ではトリオを愉しんだりして、
あまりにも音楽に夢中になって、卒業試験に落第。
一年遅れで卒業して、ヘルシンキ大学に進学、同時にヘルシンキ音楽院専科にも籍を置いた。
しかし、音楽から離れられず大学を2年で中退、音楽に専念するようになった。

Sibelius-21_02376.jpg

 生家は、一時人手に渡っていたが、現在は博物館として往時を復元。
所縁の楽器を収集して、シベリウスを回顧させてくれる。
またハメーンリンナには学生時代に下宿した家や学校、公園などがあって、
今はシベリウスを偲ぶ街となっている。

木之下晃アーカイヴス
次回は、音楽の遺蹤からトゥルク・シベリウス博物館をご紹介します。

■お知らせ■
木之下晃がライフワークとして取り組んでいた公募写真展
「寿齢讃歌―人生のマエストロ―」が今年は10回目を迎えます。
残念ながら10回目の開催を見届けることなく本人は旅立ってしまいましたが、
茅野市美術館では9月の写真展を前に、これまでの全作品をずらり見て頂く
スロープ展示が始まりました。
スロープ展示
毎年、写真がどんどん上達していく参加者の様子を木之下も頼もしく見ておりましたが、
こうして並べてみると壮観ですね!
この展示は9月27日まで。
「寿齢讃歌―人生のマエストロ―Ⅹ」は9月12日から9月27日まで。
また同時開催企画として9月6日(日)から10月26日まで
常設展示室にて「音楽写真家 木之下晃」写真展が開催されます。
茅野市美術館が追悼企画として収蔵作品を展示してくださいます。
木之下を偲んで多くの方に足を運んでいただけると嬉しく思います。
http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2015/0520.html#photo



音楽の遺蹤~シベリウス・アイノラ荘

本日、7月16日は木之下晃が生誕した日でもあります。
そこで、本日より、木之下がこれまで雑誌等に連載してきた記事を、折々ご紹介していきます。

初回は、2007年4月より『音楽の友』で連載していた
「音楽の遺蹤~音楽を感じる旅」より、
連載 第9回「シベリウス・アイノラ荘」です。

今年はシベリウスの生誕150年のアニバーサリーイアーであり、
これを前に木之下は、精力的に撮影を重ねたシベリウスの足跡の写真を、
改めて整理していました。そこで、数々の連載の中から、
初めに、シベリウスについての記述と写真を改めてご紹介していきます。

音楽の遺蹤~シベリウス・アイノラ荘
〓フィンランド・ヤルヴェンパー〓
(『音楽の友』2007年12月号より  写真・文: 木之下 晃)

シベリウス67 by akira kinoshita
<アイノラ荘にそのまま残されているシベリウスのベッドと作曲机>


 ジャン・シベリウスが亡くなったのは、1957年9月20日9時15分で、
死因は脳内出血だった。今年は没後50年となる。
私はシベリウス逝去の報を新聞で知り、
その時「エッ!!シベリウスってまだ生きていたんだ」と驚いたことを覚えている。
享年92だったが、同じ時代の人とは、つい思っていなかった。
 私がシベリウスの終の棲家となったフィンランドのトゥウスラ村ヤルヴェンパーにある
「アイノラ荘」を初めて訪れたのは、80年8月23日だった。
その頃はシベリウスの5女で72歳になるマルガレータさんがご健在で、
別荘として使っていたので特別の許可を得て撮影した。
 
 シベリウスがヤルヴェンパーに住居を移したのは、
1900年のパリ万博で彼の作品が演奏され、
それが評判になって国際的に名が知られたことから、
社会的名士として人々との付き合いが増えて
作曲活動に支障をきたして、隠遁するためであった。
 ヤルヴェンパーはヘルシンキから北北東へ約30キロ行った小村で、
当時は人気もまばらな樅や樺などの林に囲まれた静かな所だった。
シベリウスはトゥウスラ湖から2キロほど離れた丘の緑に土地を求めて、
山小屋風の家を建てた。
設計はフィンランドの著名な建築家ラルス・ソンクで、1904年の夏の終わりに完成。
愛する夫人の名前をとって「アイノラ」と名付けて、50年間の愛居となった。
この地にシベリウスが住んだことで、後に画家のペッカ・ハロネン、
作家のユハンナ・ヘイッキ・エルッコやユハニ・アホ、
詩人のエイニ・レイノなどの芸術家が移り住み、芸術村となった。
フィンランドを代表する作曲家のヨーナス・コッコネンの住居も、
建築家アルバー・アアルトの設計によって建てられた。

シベリウス51 by akira kinoshita
<フィンランドのトゥウスラ村ヤルヴェンパーにあるアイノラ荘
 シベリウスはその人生の後半をこの山荘で過ごした>


 このアイノラ荘で、5女のマルガレータ(1908年生)と6女のヘイディ(1911年生)が誕生し、
ヴァイオリン協奏曲をはじめ、第3から第7交響曲などの主要作品が書かれた。
しかし、1929年を持って作品を書く筆を折ってしまった。
以降30年近い歳月、作曲家としての謎の空白時代が続いた。
 晩年のシベリウスは書籍が壁面一杯に飾られた書斎の片隅に、
当時の最新ラジオやオーディオ設備を設えて、
外国の短波放送やレコードで、自分の作品を聴くことを愉しみにしていたという。
葉巻を好み、作曲部屋は寝室と兼用にしていて、ベッドが置かれていた。
私が訪問した時は、シベリウスが息を引き取ったベッドがそのままになっていた。
またシベリウスの作品にならなかった晩年のスケッチも見せてもらった。

シベリウス89 by akira kinoshita
<シベリウスが用いた五線譜と天眼鏡>

 そのシベリウスと親しくしていた日本人がいた。
それは初代駐芬代理公使として、1933年4月にヘルシンキに赴任した市河彦太郎氏である。
最初の公使館は、ヘルシンキの南のはずれにあるカイボ公園の前に建つ
6階建アパートの6階の半分を使っていた。
その6階のあとの半分にシベリウスの次女であるルート(1894年生)が嫁いだイルヴェス家が入っていた。
そのため時折シベリウスが訪ねてきていたことから顔見知りになったとのこと。
私は縁あって夫人の市河かよ子さんと知り合って、そのことを伺った。

シベリウス109 by akira kinoshita
<アイノラ荘の庭にあるシベリウスとアイノ夫人の墓碑>

 シベリウスの葬儀は、9月29日に国家葬として執り行われた。
彼の墓はアイノラ荘の庭にあり、義理の息子で建築家のアウリス・ブロムシュテットのデザインによる
名前が浮き彫りになった正方形の平らな大理石碑が置かれている。
またその墓碑には、1969年に98歳で亡くなったアイノ夫人の名前が小さく寄り添って刻まれている。

木之下晃アーカイヴス
次回は、「音楽の遺蹤」より、ジャン・シベリウス生家をご紹介します。

■おしらせ■
7月19日放送の『題名のない音楽会』はシベリウスを特集。
佐渡裕さんと藤岡幸夫さんがシベリウスについて語り、演奏します。
この放送で、木之下が撮影した渡邉暁雄さんの写真を使って頂きました。
佐渡さん、デビュー時の写真と共にお楽しみいただけますように。
(7月26日BS朝日で再放送)


プロフィール

木之下晃

Author:木之下晃
音楽写真家木之下晃のブログです。
展覧会や出版のお知らせ、
撮影エピソードなどを紹介していきます。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR