【追悼】 クラウディオ・アバド氏~The late Claudio Abbado
指揮者のクラウディオ・アバド氏が
1月20日、イタリア、ボローニアの自宅で逝去された。
<1994年10月14日 ベルリンフィル来日公演 サントリーホール>
彼の偉業については、私がここで言うまでもないだろう。
巨匠のことは、1973年3月のウィーンフィルを率いた初来日以来、
来日の都度、撮影を重ねてきた。
私にとっても大変魅力的な被写体だった氏を、写真とともに悼みたい。
<1973年3月20日 ウィーンフィル来日公演 東京文化会館>
アバドは1990年にカラヤンの後任としてベルリン・フィルの音楽監督に就任。
すると、演奏前、バックステージでのオーケストラのメンバーの様子が
ガラリと変わって、とてもリラックスするようになったのに、驚いた。
私はカラヤンとベルリン・フィルの撮影も重ねていたが、
監督によって、これほどまでオケの雰囲気が変わるものかと、感心したものだ。
<左2枚・1983年5月17日 昭和女子大人見記念講堂 右・1987年3月25日 サントリホール>
1985年に私が写真集『世界の音楽家』を刊行した時には、
ロンドンからmarvelous な写真集だと手紙をもらい、
非常に嬉しかったのを覚えている。
<右・1996年10月21日 ベルリンフィル来日公演 サントリー・ホール 左・シリーズ『石を聞く肖像』より>
エピソードをひとつ。
1988年にイギリス室内管弦楽団と来日の折、
名古屋公演の後、名古屋に宿泊の予定だった氏は
急遽、宿泊先を東京に変更された。
取材を終えて帰途につく私と新幹線で同じ車両となるのだが、
氏の隣には、当時恋仲であったヴァイオリニスト、ヴィクトリア・ムローヴァがいた。
私とムローヴァも旧知であり、話が弾み、楽しい道中となった。
少しはにかみながら撮影に応じてくれた、珍しいショットがこちらである。
2013年の来日が健康上の理由で中止となり、
会うことが叶わなかったのが残念であるが、
手元には巨匠の姿を収めた数々のフィルムが残っている。
いつか本にまとめることができたらと思いつつ
ご冥福をお祈りしている。
木之下 晃
1月20日、イタリア、ボローニアの自宅で逝去された。
<1994年10月14日 ベルリンフィル来日公演 サントリーホール>
彼の偉業については、私がここで言うまでもないだろう。
巨匠のことは、1973年3月のウィーンフィルを率いた初来日以来、
来日の都度、撮影を重ねてきた。
私にとっても大変魅力的な被写体だった氏を、写真とともに悼みたい。
<1973年3月20日 ウィーンフィル来日公演 東京文化会館>
アバドは1990年にカラヤンの後任としてベルリン・フィルの音楽監督に就任。
すると、演奏前、バックステージでのオーケストラのメンバーの様子が
ガラリと変わって、とてもリラックスするようになったのに、驚いた。
私はカラヤンとベルリン・フィルの撮影も重ねていたが、
監督によって、これほどまでオケの雰囲気が変わるものかと、感心したものだ。
<左2枚・1983年5月17日 昭和女子大人見記念講堂 右・1987年3月25日 サントリホール>
1985年に私が写真集『世界の音楽家』を刊行した時には、
ロンドンからmarvelous な写真集だと手紙をもらい、
非常に嬉しかったのを覚えている。
<右・1996年10月21日 ベルリンフィル来日公演 サントリー・ホール 左・シリーズ『石を聞く肖像』より>
エピソードをひとつ。
1988年にイギリス室内管弦楽団と来日の折、
名古屋公演の後、名古屋に宿泊の予定だった氏は
急遽、宿泊先を東京に変更された。
取材を終えて帰途につく私と新幹線で同じ車両となるのだが、
氏の隣には、当時恋仲であったヴァイオリニスト、ヴィクトリア・ムローヴァがいた。
私とムローヴァも旧知であり、話が弾み、楽しい道中となった。
少しはにかみながら撮影に応じてくれた、珍しいショットがこちらである。
2013年の来日が健康上の理由で中止となり、
会うことが叶わなかったのが残念であるが、
手元には巨匠の姿を収めた数々のフィルムが残っている。
いつか本にまとめることができたらと思いつつ
ご冥福をお祈りしている。
木之下 晃
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