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【追悼】クルト・マズア氏(前篇)

〔In memory of Kurt Masur〕

クルト・マズア(C)Akira KINOSHITA
<1987年5月10日撮影 神奈川県民ホール>

指揮者のクルト・マズア氏が12月19日に逝去されました。享年88。
木之下晃は、巨匠の自宅に招かれるなど、氏と交流を深めながら
撮影やインタビューを続けておりました。
木之下晃アーカイヴスは、木之下が遺した写真と文章で、巨匠を追悼いたします。
(前後篇に分けて掲載いたします。)

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 1989年11月20日、私はライプティヒのカール・マルクス広場を埋め尽くす三十万人の大集会の渦の中にいた。民主化を求める東ドイツ市民の声は、日に日に昂揚。その興奮する市民の声に対して、西側の状況を知るクルト・マズアは民主化を支持していた。市民からは民主化のリーダーとして信頼されており、話を聞いた当時の東ドイツの文化大臣も「我々はクルト・マズアを大統領に推している」と語っていた。巨匠は市民と体制の両側から支持されていたのである。
 翌、12月。来日した巨匠にサントリーホールの楽屋でその話を伝えると「私は絶対政治家にはならない」と断言。巨匠は“音楽”を選択したことによって、ニューヨーク・フィル、ロンドン・フィル、フランス国立管弦楽団と世界三大都市の冠たるオーケストラを率いたのである。後日その話題に触れると「大統領になんかなっていたら、とっくの昔に死んでいたよ」と笑っていた。

クルト・マズア 950507(C)Akira KINOSHITA
<1995年5月7日撮影 Bunkamuraオーチャードホール>

 クルト・マズアは、当時ドイツ領(現ポーランド)のシェレージエン地方ブリーグという所で生まれた。父親はシーメンスの電気技師で、時代の最先端の仕事をしていた。家は小さな電気店で母親が切り盛りしていたという。幼児の頃から音楽の才能が芽生え、それを見出した叔母の薦めで5歳からピアノを習い始め、ギムナジウムが終わると、16歳でプレスラウの音楽学校へ通った。
戦争が激しくなり、1944年の12月「敵が来る」と云うので、町の全員が逃げる中、まず母親の故郷チューリーゲン地方クロースターマンスフェルト町(アイゼンナッハの近く)へ避難、その後、父の職場「シーメンス社」があるハルツ地方オーシャスレーベンに移った。17歳で徴兵され、陸軍に編入、オランダの前線に送られた。その時、一緒に出兵した兵士の中には17歳の兵士が134人いたそうだが、そのほとんどが戦死、生き残ったのは、たったの25人だったという。巨匠は運よくその中にいた。

クルト・マズア 020625(C)Akira KINOSHITA
<2002年6月25日撮影 サントリーホール>

 その後は捕虜収容所に入れられるも、同じ収容所で看護師をしていた長姉が偽のパスポートを作ってくれて逃亡、父親が働いていたオーシャスレーベンまで歩いて辿り着いた。それから間もなくして敗戦。戦争が終わると、18歳でライプティヒ音楽院に入学、音楽家としてのキャリアを歩きだした。 ------(text by Akira KINOSHITA)

クルト・マズア 040420(C)Akira KINOSHITA
<2004年4月20日撮影 サントリーホール>

人道主義者としての功績も讃えられるクルト・マズア氏。
彼の生き方は、このような戦争体験に裏付けされるのですね。
近日中に後篇を掲載予定です。
引き続きお読みいただけると嬉しく思います。

木之下晃アーカイヴス




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